『映画の乳首、絵画の腓』書評 

  by 荒俣宏氏


久しぶりに、うらやましい快楽のむさぼり方をしている人物の告白記に出会った思いがした。

荒俣宏氏    「スタジオ・ボイス」1991年2月号


  なんとも異様なタイトルの本である。とてもまともな映画批評集ではあるまい、と直感して読んだら、やはり尋常な映画批評ではなかった。映画を存分に味わいつくすための個人的実践の足跡を語る極秘的告白本である。たとえば、制作されなかった映画企画について、どのような形で語るのが最適だろうか。むろん、実際に出来なかった映画であるから、映像論で取り扱うわけにはいかない。では、映画作家論ではどうかというと、これも〈幻の映画〉を相手にしているかぎり、怨みごとや仮定の話にならざるを得ない。ところが滝本にかかると、つくられなかった無数の映画が胸のときめく物語をかたりだすのだ。

 リドリー・スコットが『ブレードランナー』をつくったとき、フィリップ・K・ディック狂いのダン・オノバンが、完膚なきまでにこれを叩きのめした。たぶん、オノバンは自分以外のだれにもディック作品の映画化をさせたくなかったのだろう。オノバンは自分がつくるつもりだったろう映画を、スコットに横取りされ、映画に対しいろいろとケチをつけた。その一例が、フランスのコミック作家メビウスの絵を『ブレードランナー』が盗んだ、という非難だった。ところが『ブレードランナー』を制作したスコットは、ディックの原作を読み通すことに耐えられず、かなり独自の工夫を映画に加えたかった。現に、映画の第一案は原作とかなりかけはなれており、この原案がディックの激しい怒りを買い、変更を余儀なくされている。その初案を見る機会をもったサイバーパンクSF『ニューロマンサー』の作者W・ギブソンは、現実に映画化された作品なぞ問題にならぬくらいすばらしかった、と証言している。

 こうなると『ブレードランナー』自身、幻の映画となるわけだが、スコットはそれと別に『トリスタンとイゾルデ』とぜひ作りたいと思いながら実現できなかったし、ホドロフスキーもデヴィッド・リンチの『砂の惑星』を本当は自分がつくりたかったのである。

 このように、つくられなかった幻の映画を、おのおの深い思い入れのある映画作家同士のからみの内に眺めていくことで、逆に映画作家のメンタリティーが浮き彫りにされる。こいつはひょっとすると、「できなかった映画論」のようなものが可能なのではないか、と思わせるほど潜在力を秘めたテーマである。が、一本の企画がつぶれるまでに演じられる原作者と映画作家との修羅場を楽しむためには、当然、映画館にすわって銀幕に目を注いでいるだけでは不十分なのだ。彼は本屋にも行き、原作者の作品を買いこみ、それらを読破するだけの好奇心を具えていなければならない。映画の〈快楽批評〉宣言を行う滝本は、「あとがき」に書いている――

「洋画を監督中心で見始めたのは『反撥』以降のロマン・ポランスキー、『悪魔のシスター』以降のブライアン・デ・パルマ、『時計じかけのオレンジ』以降のスタンリー・キューブリック等々であるが、しかし、そのときはまだ映画を自分流に快楽する角度が見えていたとはいえない。それが見えてきたのは、80年代半ばに至ってからだ。

 貧しいながら自前の箱庭(コンテキスト)をつくりだすこと。

 映画を他ジャンルに侵略させて、多層の虚構をつくること。好きな映画を何度も体験するためには、このいかがわしい作業に熱中することが不可欠なのだ」

 たしかに、つくられなかった映画であっても、原作と初案、あるいはそのぶつかり合いの形で楽しめば、これほど興味深い〈映画〉はありえないことになる。原作者からOKがでて、めでたく制作された映画などは、所詮、借りてきた猫なのである。

 芸大芸術学科を出て、マガジンハウスのクロワッサン編集者になった著者ならではの、多層的映画愛の方法である。なるほど、これなら映画になっていない映画をも自分の手もとに引き寄せられる。

 そういえば、私が一度だけ会ったことのある日本一のフィルム・コレクター杉本五郎さんが言っていた。映画はどんどん捨てられる。現像所で、捨てられた拾われてコレクターの手もとに残る、と。思えば、できなかった映画にも熱心に筆を及ぼす滝本誠は、批評界の杉本五郎だったのかもしれない。杉本氏と同じように、滝本もまた書物のジャンクのなかに暮らしており、決してそこを抜けだそうとはしない。

 ともあれ、本書の著者は、〈つくられなかった映画〉を長ながと論じる方法をつくりあげてしまった。これはむしろ、自分のごく親しい友人がつくりかけて失敗した映画へのオマージュ集成ともいえる。実際、著者滝本にとっては、完成された映画もされなかった映画も、自分の親しい友人たちにほかならない。私は本書を読みながら、まるで国際ファンタスティック映画祭のパーティーにでも同席したような気分になる。いや、業界裏事情に通じているとかいないとか、そういう意味で言うのではない。映画という共通の趣味を介して、写真家や小説家や美術家、さらに音楽家や芸能プロモーターたちが集まって饒舌なおしゃべりを楽しんでいる。そのような席に、ふと居合わせてしまった興奮を伝えるからである。

 ついでだから、滝本式映画快楽術のの切れ味をもうすこし試してみよう。まずは「ウィーン世紀末・愛の行方」から行こうか。狂言まわしはニコラス・ローグの映画『Bad Timing(ジェラシー)』だ。この作品の冒頭、男の首をかき切った聖女ユディトの恍惚を踏み台として、世紀末ウィーンに展開した「女に囲われる男たち」の光景が語られる。男と女の関係の逆転、ここに現代のフェミニズムが胎動するわけだし、マゾヒズムのような変態セックスも哲学的はけ口を発見する。

 かくて滝本は関係の逆転をもひとつ逆手にとって、自分と自分の関係の世紀末形式であるオナニズムと覗きの意味を探るのだ。

「ジークムント・フロイトの性心理学こそ、学問の形をとった覗きである」という一文が効いている。滝本はまた、ローグの映画が世に喧伝したエゴン・シーレについての、日本での受容史にも快楽の目を向ける。まだ映画が公開されていない79年に開かれた本邦初のシーレの個展は閑散としたものだったらしい。シーレが83年になって一気に日本での知名度をかち得たのとは対照的だ。ところが彼については性科学研究の好事家サークルで関心がもたれていた。彼の名は秘密の薔薇だったのである。

 そのほか「ロンドン世紀末とヴァンピリズム」、「アート・イントゥ・フィルムズ」もおもしろい。彼の方法論の徹底ぶりは巻末に添えられた「人」「映画」「本」「美術」「音楽」に細分化された11ページの索引、ならびに夥しい脚注に尽きている。へたをすればオタッキ―あるいは「オタク」化する趣味性を、本書の著者は「開かれたオタク」となることで回避している。一生を映画で楽しみ尽くそうという人々には、これだけの自己投資が必要なのだろう。かく申す筆者自身も書物を徹底的にむさぼり食って満足する野蛮な人間であるが、久しぶりに、うらやましい快楽のむさぼり方をしている人物の告白記に出会った思いがした。