2001年8月9日

カッポ―二の礼拝堂へいき、ヤコプ・ポントルモの絵を鑑賞する。 マニエリスムの傑作のひとつだ。マニエリスムという言葉はなつかしい。 イタリア語の追試をお情けでやってくれた若桑みどりさんの専攻がマニエリスムだった。 ルネサンスが絹だとするとマニエリスムはビニール、といっていいだろうが、 バロックは麻か? ともかく、ポントルモは薄暗く照明を落としてよくみえない状態だった。 作品保護のためだ。老婆がパンフレットを売り、 入ってきた女性観光客の肩が露出していないかチェックしている。 あと本屋をいくつか回った。 買ったのは、エドワード・ホッパーのイタリア語版リーダース・ガイド本、 絵をふんだんに使ったかわいいフェリーニ・コンパクト本。 <M>という、カラバッジョのあたらしい伝記。 そして、<ハンニバル>のイタリア語訳。 本国版より、こちらの装丁のほうがいいような、より拷問的、心理的だから。 女性の翻訳家である。今回は全編、子宮のなかでうつろうようなところがあるから 女性が訳したほうが文章が濡れるかもしれない。 20時にパリ直行の夜行に乗る。 暑い、車内が信じがたいほどに暑い。 パリではなにもしないでおこう。 無事、旅も終了しそうだ。  


8月8日

子どもたちと動くとどうも殺気が酸欠状態になり、 ハンニバル・モードが回復できない。 で、早朝と深夜が勝負というわけだが、 この時期は観光シーズンなので深夜は午前までも街は騒々しいのである。 そのぶん安全だが。で、5時に起きだして、いくつかのポイントを歩くことにした。 さすがにだれもいない。 まず警察、小説では以前精神病院だったという設定だが、 たしかに中を覗くと回廊のイメージがそれっぽく見えなくもない。 ヨーロッパ系は警察といっても、それらしい建物というより 完全に街に溶けこんだたたずまいである。 入り口に警官が立っていなければ、ここもまず警察とわからない。 前を行ったりきたりしているとさすがに目立たないオレでも目に留まるらしく、 目線がきびしくなっていくのがわかる。 ビデオ撮りしているしね、やはりヘンか? 次に行ったのがカッポ―ニ宮、これも外への開口部はすくなく そうみなければ通りに面したただの建物にすぎない。 やはり要塞都市なのである。ここに2時間ねばって、 ここでもパトカーがやってきたりしたが、この顛末は、またね。  


8月7日

「タキヤンの滞欧日記 フィレンツェ篇その2」

ずうーとサンジャン・モリエールは雷雨で、 こんな時期に雷雨はめずらしいらしかったが、 この雷雨を我らがファミリーはフィレンツエへも持ちこんだらしく、 ここ何十年ではじめてという天変地異が起こったのである。 リドリー・スコットは人工雨を降らすため、苦心惨憺したらしいが、 オレは自然にスコット・エフェクトを達成したのであった。

  今日は、ホテルに予約をとってもらって、 ルネサンス・アートの総本山ウフィツィ美術館に向かった。 が、あまり書くことはない。 フレンツツエの唯一の見物は大学付属の解剖博物館だろう。 人間の肉体がここでははなやかに裏返って、 誰でもひとつ人間のからだにメスをいれたくなろうというものだ。 『インビジブル』のわが愛するバーほーベン監督もここを訪れた、 ときいていたが、いや人体はアートだ。

帰りは川で遊んだ。息子は川に向かっておしっこをしていたが いいのかしらん。  



8月6日

「タキヤンの滞欧日記 フィレンツェ篇」

宿泊先はホテル・ユニコーンのローマ字読みホテル(注:ホテル・ユニコルノ)。 駅からもどこからも近いし、オーナー夫人は日本女性。 この女性がすご腕で、このホテルの繁栄があるといっていい。 ばしばしと言葉が飛んできて、気持ちいいのである。 ここを基点に動いたわけだが、まず、ホテルおすすめの中華店に行き・・・おいしい。 日本で食べた中華のどこの店よりもおいしく感じた。  

もう忘れたが、大きい教会へ行き、並んで待ったが、 そのとき中国人の女性グループがスカーフを売っていることに驚いた。なぜ? きけば不法入国者とか。本人が言ったわけではないよ。 なぜ、スカーフ? 教会では肩を出すことは禁じられているため、 そんなこと知らずに入ろうとする旅行客相手の商売というわけだ。 入口にはジプシー女性。これか・・・ハンニバルから掏り取ろうとした女は。  



8月2、3、4日

「タキヤンの滞欧日記 サンジャン・モリエール篇」

この4日間おせわになったのは上の娘のホームステイ先である。高校3年のときに1年留学、 高校2年の学級に入った。フランスの国語のすごさはだれかれかまわず、ゾラ、モリエールから なんとサドまで原書で読ませてしまうことだ。娘は文学少女ではなかったが、とにかくフランス文学を 無理やり読まされてしまった。 近くにサドが幽閉されていた城の廃墟があり、そこへ連れていってもらったが、驚いたことに 日本語のガイドブックがあったのである。穴があり、下をのぞくと千尋の谷。聞けば捕虜とかの 処刑はここからずぼりと落とし、悲鳴を楽しんだようなのである。 サンジャン・モリエールはイタリアに近いが、この地を通っていったのがカルタゴのハンニバルである。 ハンニバルの足跡を追って明日はもうひとりのハンニバルの街へいくことになる。フランス人の 誰もが、イタリア人には気をつけろと脅してくれたが、さて・・・・。




秘書のつぶやき

滝本センセイがこの日記を送ってくれたのが、9月19日。催促して、やっと3日分の日記をまとめて放り込んでくれました。 いつのまにか現実の時間と日記の日付とのタイムラグが1ヶ月以上も開いている。とほほほ。



8月1日

「タキヤンの滞欧日記・リヨン篇」

パリ駅から高速電車で、リヨンまで。パリをわずかに出るともう畑であり、こうしたメリハリはわが国に はない。東海道新幹線での風景はまさにだらだらと家が立ち並び、あれと思う間に名古屋である。 狭いから仕方がないわけだ。 リヨンで電車の乗り継ぎがうまくいかず2時間の足止め。子どもたちは近くのショピングモールへ 出かけていき、ぼくが駅で荷物番だが、ここで狙われた。構内カフェでうつらうつらしていると バンと音がして、テーブルの上になんか訳のわからないものがのっている。うわさに聞いていた 押し売りの新手、というか荒手である。手にとろうものなら、いくらで買えというやつだ。しるか、 というわけで無視していると男がノンというからノンと答えるとわけのわからんものをひっつかんで 消えた。うざったいな、この野郎、疲れているのに。 シャンベリーまでロジェがお迎え。  



最近の日記に戻る

2001.1月〜2002.2月

2001.1月

2000.12月

2000.11月

2000.10月

2000.9月

 

2000.5〜7月

2000.3〜4月

2000.2月

2000.1月