【再録】世界を覚醒させた3つのイタリアン・デザイン

初出:『GQ Japan』1999年5月号 テキスト:平林享子

本棚を整理していたら、過去に書いた原稿を見つけたので、ここに再録します。

【再録】世界を覚醒させた3つのイタリアン・デザイン

初出:『GQ Japan』1999年5月号 

画期的なデザインが次々と登場 

イタリアン・デザインの黄金時代、映画や雑誌などのマスメディアにのって洗練されたイタリアン・デザインのイメージは世界中に広まり、その後のデザインに決定的な影響を及ぼした。その革新性とは何だったのか、なぜそのようなデザインがイタリアから生まれたのだろうか。


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イタリアン・デザインの第一期黄金時代は50~60年代。戦後、奇跡的な経済発展の波に乗りわずか数年で世界に冠たるデザイン王国となったイタリアだが、決定的な役割を果たしたのは、40年代後半から登場した3つのデザインだった。

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ヴェスパ

まずは1946年に発売されたヴェスパ。ソファに座った感覚で快適に移動できる乗り物としてピアッジオ社が開発したこのスクーターは、航空機エンジニア、コラディーノ・ダスカニオが開発を手がけ、航空機の構造を応用したモノコックボディの斬新なデザイン。「すずめばち」という名前がぴったりの愛嬌のあるスタイリングもさることながら、女性がスカートで気軽に乗れるモーターサイクルというのは、とにかく画期的だった。世界中に輸出され、50~60年代にかけて数々の映画にも登場した。とくに『ローマの休日』(53年、アメリカ)でオードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペックが仲よくヴェスパでローマの街を走るシーンは印象的で、ヴェスパの普及に拍車をかけた。

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チシタリア202ベルリネッタ

次に、カロッツェリアのピニンファリーナがデザインした「チシタリア202ベルリネッタ」(1947年)。低いボンネット、ルーフからリアにかけて流れるようなラインをもったこの車は、1947年にコモで開かれたコンクール・デレガンス(車などの優雅さを競うイベント)でも賞賛され、戦後のカー・スタイリングの流れを決定的に方向づけた。

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オリベッティのレッテラ22

3つめは、オリベッティのタイプライターと計算機。重苦しかったオフィスワークに明るく軽快なデザイン革命をもたらした。とくにマルチェロ・ニッツォーリがデザインしたポータブル・タイプライター「レッテラ22」(1950年)は、シンプルなボディとソフトなカラーが画期的で、インダストリアル・デザインの傑作として有名だ。

こうした革新的なイタリアン・デザインを歓迎する環境も整っていた。40年代後半からニューヨーク近代美術館のデザイン部門では、グッド・デザイン展が盛んに開かれた。1952年の「動く彫刻・自動車」展で、チシタリア202ベルリネッタが「自動車のボディ・デザインの基礎を築いた名車」として選ばれ、1952年には「オリベッティ」展が開かれて、イタリアン・デザインの先進性が鮮やかに印象づけられた。47年から再開されたミラノ・トリエンナーレ(世界の最新デザインを国別に展示するショー)や、『ドムス』『カサベラ』といったイタリア発のデザイン誌もイタリアン・デザインを世界中にアピールするのに役立った。

なぜ、かくもエレガントで官能的なのか

イタリアのデザイン界で大きな役割を果たしてきたのがオリベッティで、とくに2代目社長のアドリアーノ・オリベッティは、人間工学に基づいたモダンで明るく美しいデザインを追究し、優秀なデザイナーに活躍の機会を与えた。

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オリベッティのバレンタイン

ニッツォーリに続いてエットーレ・ソットサス、マリオ・ベリーニなど、その時代のイタリアを代表する才能がオリベッティのデザインを担当している。パトロンと芸術家との理想的な関係からいい作品が生まれるのは、ルネサンス時代からの伝統。60年代に生まれた傑作にはソットサスによるポータブル・タイプライター「バレンタイン」(1969年)があり、若年層を意識したポップなデザインは世界的にヒットした。

50年代中頃からピニンファリーナがフェラーリのデザインを手がけるようになったが、フェラーリが世界最高のスポーツカーとして今日まで君臨し続けてこれたのにはピニン・ファリーナの功績も大きい。とくに創業者のバッティスタ・ピニン・ファリーナ(「ピニン」はニックネーム。のちに「ピニンファリーナ」という姓を国から授与された)は、50年代に次々と傑作を世に送り出した。

「ピニンはイタリアの自動車スタイリングのルネサンスを率いている。それは彼のつくりだすボディがシンプルでクリーンで、本質的な線に極限されているからだ。彼の作品にはセンセーショナルな ところはまったくない。だが彼のスタイルは常にその個性を失うことなく、古くさくなることもない」

盟友エンツォ・フェラーリは、さらにピニンファリーナとの関係についてこう語る。

「われわれは互いに相手に必要なものを求め合っていた。彼はいわばドレスを着せるための美しい女性を探し、私は彼女に着せる高級なドレスを求めていたのだ」

美しい女性と美しい工業デザインを真剣にまったく同等にとらえているところが、いかにも愛すべきイタリア野郎という感じだ。

エレガントで官能的。これはピニンファリーナに限らず、オリベッティの製品やヴェスパ、イタリア・デザインの黄金時代を築いたデザインに共通して言える特徴。

そしていずれも独創的な人物から生みだされたデザイン、個人の美的感覚にこだわって生まれたデザインであるところが興味深い。

イタリアにおいてモノづくりは、個人の情熱と美学とロマンチシズムに基づいて行われてきた歴史がある。ファシズム政権から戦後民主主義に変わってイタリア人本来の個人主義、快楽主義が解禁になり、ほとばしる情熱が官能的な美しいデザインを生んだのではないか。

近代化と優雅さを求めるベクトルが同時にピークに達した40年代後半から50年代に、ルネサンスの頃からブオン・グスト(趣味のよさ)やエレガンテの追求には人後に落ちないイタリア人のセンスが炸裂したように思えてならない。

そしてそれを可能にする高度な職人芸の伝統が続いていたことも大きい。工業デザイナーが職業として分化していたアメリカなどと違い、イタリアではエンジニアや建築家などの開発者自らがデザインも手がけており、ラジカルなデザインが可能だったこともある。

当時のデザインは世界的にモダンかつ有機的な方向を目ざしていた。が、生産性重視・大量生産型のアメリカがいくらオーガニック・デザインといったところで、イタリアン・カトリックの享楽的デザインの前では、その清教徒的お行儀のよさは、どうも影が薄い(それはそれで魅力的だが)。

黄金時代のイタリアン・デザインは今見ても圧倒的な魅力をもっている。単なる機能主義からは決して生まれてこない、個人的な快楽に基づいたデザインの勝利。人間と道具(機械)とが合体しひとつになって互いに作用し合うとき、そこに大きな快楽がある、という発想と経験に基づいていることは確かだろう。

初出:『GQ Japan』1999年5月号「特集:イタリア前衛伝説 パゾリーニを知っているか?