星占いについての原稿を書くことが増えた日々の中で、ときどき思い出すのが2011年に、民俗学者の故・谷川健一先生に伺ったお話です。「民俗学の楽しさ」について。学ぶことの楽しさ、自分の人生のテーマと重なる学問に出会うことの幸福と試練のようなことを考える日々なのですが、このときうかがったことが、自分の中で予想外に大きく響いている気がします。
●民俗学が対象としているのは循環的な世界。春に種をまいて、秋に収穫をして、冬を越して、また春に種をまいてと、この繰り返しで、民俗学の時間は循環的。その循環的な世界の中で、人間もまた自然の営みのひとつだと感じられること。
●民俗学の面白さとは、問いの面白さ。既存のことに「これはなぜなのか?」と問いを立てることで、偶然が必然となり、運命となり、人生がひとつのストーリーとなっていく。
「星占いの原稿を書く=星の動きを読んでいる」と、この「循環的な世界に生きる」を意識するようになりました。
(長いインタビューの一部だけ抜粋)
【初出:「熱風」 2011年3月号】
民俗学の道へ
私は最初から民俗学を志していたわけではなく、若い頃は西洋文化に憧れていました。戦時中は大学生でしたが、結核の療養のために長く休学し、ヨーロッパやロシアの文学や宗教、哲学の本を夢中で読んでいました。一九五二年に平凡社に入社して最初に配属されたのが『児童百科事典』(全二十四巻)の編集部で、最初のうちは世界各国の事項を調べるのが面白かったんですが、だんだん日本のことに興味が移っていき、とくに年中行事や祭りなど民俗的な項目が出てくるとすごく楽しかったんです。キリスト教の文化は、どうも日本の風土には合わないように感じられて、日本の土壌になじんだ宗教や思想を見直したいという気持ちがしだいに強くなりました。そこにはやはり戦後の「日本人とは何か」「日本とは何か」という問いが、たえず自分の中にあったからだと思います。それをなんとかして自分なりに納得したいという気持ちで、だんだんと民俗学のほうへ行ったわけです。
『児童百科事典』が完成した後は、民俗学への関心を仕事にも生かしたいと思い、『風土記日本』(全七巻、一九五七~六十年)、『日本残酷物語』(全五巻、一九五九~六十一年)というシリーズを企画しました。これらの本で編集委員をやってもらった宮本常一さんと一緒に仕事をしているうちに、ますます民俗学にのめりこんでいったんです。『風土記日本』も『日本残酷物語』もベストセラーになりました。『日本残酷物語』の第一巻のサブタイトルは『貧しき人々のむれ』です。刊行されたのはちょうど一九六〇年安保の頃ですが、庶民の過酷な実像を追ったこれらの本を多くの人が痛切に感じたから売れたわけで、つまりはそれだけ貧しい時代だったんですね。一九六三年には、人類学や民俗学の内容も盛り込んだ日本で初めての本格的なグラフィック雑誌「太陽」を創刊して初代編集長をつとめました。しかしやはり自分の本を書いて世に問いたいという気持ちが強くなり、物書きになったわけです。テーマは一貫して民俗学的なものですが、飽きることがなかったですね、面白くて(笑)。柳田国男でしょう、折口信夫でしょう、それから南方熊楠に、宮本常一。すごい人たちが先を歩いているわけですから、彼らの本を読んでいるだけでも興味が尽きないわけです。
民俗学の面白さ
そういう庶民の暮らしの中に生きているもの、伝承されているものというのは、華々しく評価されることはないんだけれども、日本人の精神の奥底にある深層意識のようなものであって、私の心を一番強く揺り動かす力をもっているんです。古代から今に至るまで変わらないものが、日本人の深層に流れている。それで民俗学にのめり込んでいったということです。
民俗学が対象としているのは循環的な世界です。春に種をまいて、秋に収穫をして、冬を越して、また春に種をまいてと、この繰り返しで、民俗学の時間は循環的です。歴史学では、何年何月何日にこの事件が起こったと、特別な時間を切り取って考証するわけですが、民俗学では時間の尺度が長いんですね。人間も循環している自然の営みの一つの存在だと思うと、人間がいかに小さな存在であるかを感じるんだけれども、それと同時に、大きなものの一部であるがゆえの安心感があります。日本人がもっているアニミズムの世界は、動物も植物も鉱物も人間もみんな同列です。秋に木の葉が落ちて地面に積もって、動物の死体もそこで腐って、菌がそれを分解して、また次の植物や動物の栄養になって、というふうに循環していく。そして人間もまたその連鎖の一つにつながっていて、大自然に戻っていくと思えば、死ぬのだって、まあ怖いことは怖いんだけれども、そんなに怖くなくなるでしょう(笑)。
民俗学の面白さは、答えの面白さというより、問いの面白さですね。たとえば柳田国男は「松浦佐用姫(まつらさよひめ)」について、こう解釈します。伝承では九州の唐津にいた女性で、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)と相思相愛の仲になるんだけれども、大伴狭手彦が新羅征討に出陣して、松浦佐用姫は唐津の鏡山という山の上から領巾(ひれ)を振って見送る。しかし船を追いかけてその先の小島まで行き、泣き明かして石になってしまったという伝承があるんです。それを柳田は、松浦佐用姫の「まつら」は「まつらう」で、「さよ」は「さえ」で関所や境界を意味する、つまり、松浦佐用姫は神につかえる巫女だったというふうに説明していくわけです。さらにそれと似た伝承が東北にもあることを指摘して、九州と東北をつないで想像力で読み解いていくんですから、面白くないわけがない(笑)。ですから民俗学というのは、数学のように一つの正解を見つけるよりも、既存のものに疑問をもって問いを発することで、いろんな可能性を導き出すことが大事になってきます。点と点がつながっていって、見えていなかった世界が浮かび上がってくる。それによって精神が解放されるというか、世界がパッと開けていきますよね。それが楽しくて、やめられないんです。(談)